僕と君の間にあるもので世界をかえることについて

アニメ『輪るピングドラム』を巡る考察的な何か(突貫工事のち10年放置)

Ⅲ チェンジ・ザ・ワールド!

たった<独り>を選び、<自己犠牲>の道を選んだ冠葉。
<生きることの罪>への罰を恐れ、<見ないふり>してた晶馬。
人生を諦め<ただ与えられるだけ>の女の子だった陽毬。
そのままではサネトシの予言の通り、誰も幸せになれなかったでしょう。


『運命の果実を一緒に食べよう』
一人ではなく、誰かと一緒に分け合ってはじめて、赤い林檎は金色に輝きます

結局ピングドラムとは何だったのか。
分け合った林檎です。

それは順々に巡らせていくもの。
贈与のリレーのバトン、愛、絆、命、罪と罰、進み続ける私たちを鼓舞する行進曲のドラム(例えその先が「死」であるとしても)。
そして果実に隠されていた種は、それらによって生み出される希望です。

誰もが孤独であるがゆえに伸ばしあう手の間にあるもの、それがピングドラム

見えないけれど、確実にそこに存在するもの。

智慧の実。想像力。
人間なら誰もが持って生まれるそれを思い出せ。信じろ、絶望を希望に塗り替え続けろ。
イマジン!と、我らがプリンセス・オブ・クリスタルはそう言っていたのだと、私は思います。

「ああ、どうしてなんですか。僕はカムパネルラと一緒にまっすぐに行こうと言ったんです。」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれども一緒に行けない。そしてみんながカムパネルラだ。お前が会うどんな人でもみんな何度もお前と一緒に苹果を食べたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりお前はさっき考えたように、あらゆる人の一番の幸福をさがしみんなと一緒に早くそこへ行くがいい、そこでだけお前は本当にカムパネルラといつまでも一緒に行けるのだ。」(『銀河鉄道の夜』より)

なんども推敲された『銀河鉄道の夜』は、「何べんもおまえといっしょに苹果を食べたり汽車に乗ったりした」という博士のセリフにも重なるのではと思います。そして『輪るピングドラム』は、何人目かのジョバンニと何人目かのカムパネルラの、何度目かの旅の物語。
冠葉と晶馬は、とうとうどこまでも一緒に銀河を旅する二人になったのではと思います。

冠葉は氷の破片に、晶馬は蠍の火になりました。
破片は<どうしようもない現実>として私たちの心を鋭く突き刺さし、蠍の火は、私たちの心に宿る<情熱>となって私たちを励まします。私たちには二つともが必要なのです。


陽毬はもう、冠葉からの<贈与>の痛みに傷つくことに怯えたりはしません。氷の破片を全身で受け止めて、サネトシ先生の言った100回のキスを冠葉に贈ります。苹果だって同じ。例えその身が燃え尽きて灰になってしまっても残るものを信じてる。大丈夫、無駄なことなんて一つもない。

ポイされてもいいじゃないか。100回のキスをやり返すんだよ。
心が凍り付いて息もできなくなるギリギリまで、キスを繰り返せばいい。
みじめでもいいじゃないか、キスができるんだから。
何もしなくて凍りついてもおもしろくないよ。
だったらキスをして凍りつくほうが楽しいんじゃないかな。
キスだけが果実なんじゃないかな。(20話)

サネトシは自分を<呪いのメタファー>といいました。確かにテロ首謀者の亡霊サネトシは、冠葉を絶望と孤独の深遠へと誘いました。
しかし陽毬にはどうだったでしょう?
司書サネトシや博士サネトシは、彼女に彼なりの哲学を語りかけ、大切な人たちへ<与えること>の勇気に気付かせました。アンプルマークの林檎を与えて生き返らせたり、捨てられていたマフラーを拾ってダブルHに届け、それが苹果に呪文を思い出させることになりもしました。


夜空に輝く蠍の火をもう一度思い出してください。私は「輪るピングドラムの贈与論」で、あれは罰のために燃えてるのではないと言いました。
でも一方で、<輪>から逃れた罰のため、永遠の業火に焼かれる呪いを受けているとも考えられるのです。蠍の火は、世界から忘れ捨てられて<輪>から外れてしまっている人達にとっては、見せしめでしかない。その人は『世界でひとりぼっちだ』と、孤独で押しつぶされそうになっているかもしれないのに。そうかんがえると、アンタレスの赤い輝きの中にも、相反するものが含まれているのではと思います。

『白雪姫』が魔女から受け取った毒林檎は、王子様とめぐり合わせてくれる幸運の果実でもありました。
『いばら姫』の呪いは、100年を越えて目覚めのキスをくれる王子様と結ばれるおまじないでもあった。
呪いはのろいではなく、お呪い(おまじない)かもしれない。でもやっぱり、のろいかもしれない。

運命ってなんだろう。

プリンセス・オブ・クリスタルも同じです。
プリンセス・オブ・クリスタルはもう一人のサネトシであり、サネトシはもう一人のプリンセス・オブ・クリスタル。一つのメビウスの輪の、光のあたる部分と当たらない部分。

私たちは書物を与えられ(または、書物の中から言葉を与えられ)るのであり、選択は可能だが、それを変えることはできない。一行と対話することによって、次の一行を決めてゆくことは不可能なのである。一行と次の一行とは印刷された時から、京浜東北線二本のレールのように、同間隔で果てしなくつづいているのであり、その中に立って私たちがどのように異論の旗をふっても、曲げることはできないのである。
 
しかも、そこに印刷されてあることば――たとえば林檎ということば――は、まさに林檎そのものを連想させるためにのみ存在していて、古代の書物のようにそれ自体としてものを言うことは無い。林檎、と書かれながら、このことばに赤さも重さもないというのは、何とみじめなことだろう。「幸福」ということばにしたところで、同じことである。
 
だが、こうした書物否定の「論」を、文字によって書かねばならないことが、とても悔しい。幸福について語るとき位、ことばはのように自分の小宇宙をもって、羽ばたいて欲しかった。せめて、汽車の汽笛ぐらいのはげましと、なつかしさを込めて。


『幸福論』寺山修司

世界はとっても理不尽で、そういう風にできている。
でも、それでも、でも、だけどやっぱり、と、私たちが葛藤しながらも、愛しい方向、より良い場所へと一歩ふみ出すためのチカラの在りか、在り方についての寓話。寺山修司の『幸福論』の少し先を目指す、幾原監督の『幸福論』が『輪るピングドラム』。私はそう思っています。