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僕と君の間にあるもので世界をかえることについて

アニメ『輪るピングドラム』を巡る考察的な何か

Ⅱ スズの兵隊の燃え残った心臓を握り締めて

宮沢賢治やその著作を語るとき<罪悪感>というキーワードは欠かせません。自分が生きていること自体が罪なのだという意識。『輪るピングドラム』では特に晶馬が抱えていたもの。アニメの中にも出てきた『生きることは罰』です。

賢治は貧しい農民たちが生きる東北の土地で、比較的裕福な家庭に生まれ育ちました。彼の家業は質屋。その日を生きることにも困るような貧しい農民から搾取して暮らしていると気付いた賢治は、家を嫌い、父親との確執を深めてゆきます。そしてその<罪悪感>を核にして考え、他人の為に働き、多くの著作を書きつづけてきました。彼にとって生きることは贖罪だったのです。

晶馬は自分の両親の犯した罪を知り、その運命の日に自分が生まれたことに罪悪感を抱いていました。生きていること自体が罪。これは晶馬や賢治のように生まれの問題だけではありません。
例えば、私たちは生きるために他の命を日々奪うことで生きています。悪いことではありません。でもそのことに少しでも罪の意識を感じた人も多いのではないでしょうか。そう、悪いことではないけれど……


キリスト教には<原罪>という考え方があります。ざっくり言うと『アダムとイブが禁断の果実を食べたこと、そこから私たち人間の歴史がはじまったこと、つまり最初の二人の罪は人類全員が背負っているものである』という考えです。(注:全ての教派で原罪の考えがあるわけではなく、またその意味合いもまちまちです。細かいことはここではお話しません。)
賢治は『銀河鉄道の夜』で十字架の神さまを登場させ、『お互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう』と、考え方が違う人たちとも分け合うことができるものがあることを説きました。熱心な法華経信者だった彼も、キリスト教に共感を抱いたのです。

輪るピングドラム』の林檎をアダムとイブの禁断の果実と連想した人も多いでしょう。『銀河鉄道の夜』の苹果がご褒美であると同時に、生きることの罪と罰の象徴でもあることを賢治は意識していたはずです。彼の著作には食べられる側/食べる側の話が繰り返されます。
彼は<輪>を強く意識していました。私たちは誰でも<輪>の一員であり、世界はそういう風できている。悲しいことも、嬉しいことも、辛いことも、楽しいことも、光と影はくるくると世界を巡っている。それを一人ではなく、みんなで分け合うことで「みんなのほんとうの幸せ」へ近づく。それが賢治の考えです。

そして晶馬もそこに辿り着きます。

「僕の愛も、君の罰も、すべて分け合うんだ。」

晶馬は自分の中に運命の果実があることに気付きます。
昔、あの小さな檻の中では「見出だせなかった」智慧の実です。
それは荻野目苹果であり、父や母、血の繋がらない兄妹との絆。見たくないものもそこには含まれている。でも全部認めて分け合おう。陽毬と真砂子は冠葉の、苹果は晶馬の、ゆりは多蕗の孤独に寄り添います。
蜜と毒を含んだ実を、一緒に分け合うために。

黒い兎が世界を壊そうとしている。
あれを止められるのはあなたたちだけよ。そう、あなたと冠葉君。
そしてあなたたちはあの列車で見つける。あなたたちのピングドラムを!

陽毬の残したペンギン帽子から呼びかける桃果の声。
再び呼び込まれた災厄。
ピングドラム小説中巻冒頭に、2匹の黒兎は忌まわしい記憶やの呪いを"司る"とあります。陽毬が2度目に倒れ、晶馬と苹果の呪われた運命が発覚した時に「お前達はピングドラムを失った!世界は再び闇兎を呼び込んだ!」とプリンセスが言いながら倒れてしまいますから、16年前、桃果がサネトシから分離させ世界の向こうへ追いやった、絶望や破滅、そういうった眞悧側にあるネガティブなもの、タナトス(死の本能)の暗示だと思われます。と考えると、桃果、帽子様はポジティブなもの、エロス(生の本能)でしょう。

そして最終話、晶馬の覚悟は<輪>を完成させます。

毛虫が終末と思う、その形態
救世主は蝶と名付けた。
(『イリュージョン』リチャード・バック/村上龍)

 
 
 

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