僕と君の間にあるもので世界をかえることについて

アニメ『輪るピングドラム』を巡る考察的な何か(突貫工事のち10年放置)

Ⅲ ヒーローを葬り去れ:博士消滅、選ばれし者の退場

『かえるくん、東京を救う』の最後、<かえるくん>は非かえるくん(みみずくん)となりました。片桐はもう、かえるくんの存在が夢だったのか現実だったのかわかりません。『目に見えるものがほんとうのものとは限らない』しかし彼との記憶が確かに残っている。
かえるくんは東京を救った。でもその代わり、かえるくんは失われた、あるいはもともとの混濁の中に戻っていった。もう帰ってはこない。

「片桐さんはきっと、かえるくんのことが好きだったのね?」
「機関車」と片桐はもつれる舌で言った、「誰よりも」。
『かえるくん、東京を救う』村上春樹

そうしてこのお話は幕を閉じます。
(「機関車」の線路で輪るピングドラムの世界へと接続する)


<贈与>された者は、受け取り、誰かに再び<贈与>しなくてはなりません。それは運命。片桐は10代の頃から妹弟のために一生懸命だったのに、二人は恩を忘れて彼を疎むほど、でも片桐はそのことを全く気に留めていないという設定があります。つまり<純粋な贈与>を与える可能性のある人物だった。おそらく彼は<かえるくん候補>として期待され選ばれたのでしょう。

「次」を担う。『銀河鉄道の夜』でのこの役がジョバンニでした。


賢治は死の直前まで『銀河鉄道の夜』の原稿を推敲していたため決定稿がありません。ですから様々な『銀河鉄道の夜』が存在し、例えば青空文庫の角川版と新潮版でも細部が異なっています。
そして初期形は現在読まれている最終形とは全く構成が違います。『輪るピングドラム』は、初期形「も」下敷きにしているようです(多分)。(このブログでは、ちくま文庫の『宮沢賢治全集7』の最終形・初期形第一稿〜三稿を参考に進めます)

私はこんな静かな場所で遠くから私の考えを人に伝える実験をしたいと考えていた。
(銀河鉄道の夜<初期形第三稿> 現代語訳)

カムパネルラが銀河鉄道から消えた直後、彼のいた座席に現れたのが黒い帽子をかぶって、大きな一冊の本を持ったブルカニロ博士実は初期形第三稿まで、ジョバンニの銀河を巡る旅はこの博士の催眠術による『心理実験』という設定でした
彼はセロ(チェロ)のように響く低い声で、意識の外側からジョバンにたびたび話しかけます。夢の中での彼は、指一本動かすだけでジョバンニに幻想を見せることができるイリュージョニストです。現実の彼は、ジョバンニが夢の中で言っていたことを全て手帳に記録していました。
輪るピングドラム』で博士の立ち位置にいるのもまたサネトシでしょう。そらの孔分室の司書です。書架にある膨大な『かえる君、○○を救う』は、日々忘れ去られる沢山の<かえるくんたち>の物語。だからあの場所も<氷の世界>なのです。

サネトシ博士は確かめたかった。運命という概念が存在するのか、そのルールが人の生涯を支配しているのか。そしてピングドラムはあるのか。そこには期待も含まれていたと思います。


一方、彼と同じ世界を見ることが出来たという桃果は『銀河鉄道の夜』では誰になるのでしょう。
彼女は『世界を救う者』つまり救世主、英雄。博士の実験の実験体として選ばれた初期形第三稿のジョバンニのような、特別な存在だったのではないかと、私は思います。

しかし、今一般的に読まれている第四稿(最終形)では、ブルカニロ博士の存在は跡形もなく消滅しています。と同時にジョバンニも選ばれた者ではなくなっています。

賢治は何故このような大胆な改稿を行ったのか。
もちろん小説としての形を整えるため等と考えられたりもするのですが、ここでは「ジョバンニが選ばれた存在であってはならないから」説をとりあげます。

使い古した歴史の、英雄を葬り去れ
幻想が造り上げた 英雄を葬り去れ 英雄を葬り去れ
(トリプルH『HEROES〜英雄達』白浜久)

賢治は『銀河鉄道の夜』を自分の信仰を誰かに伝えるための物語にしたかった。
博士を消すことで、ジョバンニは実験体として博士に選ばれた特別な存在ではなくなります。
そうすれば彼が銀河鉄道の旅の中で体験したことや決意は<私たちみんなのもの>となります。読者の誰もがみんなジョバンニでありカムパネルラなんだよ、他の誰かではなくキミ自身の話なんだよ、というわけです。

僕がここで書きたかったのは、僕自身の姿ではなく、むしろ「我々」の姿なのだ。
バブル経済が破綻し、巨大な地震が街を破壊し、宗教団体が無意味で残忍な大量殺戮を行い、一時は輝かしかった戦後神話が音を立てて次々に崩壊していくように見える中で、どこかにあるはずの新しい価値を求めて静かに立ち上がらなくてはならない、我々自身の姿なのだ。我々は自分たちの物語を語り続けなくてはならないし、そこには我々を温め励ます「モラル」のようなものがなくてはならないのだ。それが僕の描きたかったことだった。もちろんそれはメッセージではない。それは小説を書く上でのおおまかな心持ちのようなものだ。
村上春樹全作品 1990〜2000 第3巻 短編集II 解題『神の子どもたちはみな踊る』)

神は死んだ』と、フリードリヒ・ニーチェが宣言した通り、近代以降の人々は絶対的な価値観を失いました。善とは何か、悪とは、真理とは、愛とは、生きる理由とは何か。あらゆる神話と預言書が絶対ではなくなった時代、それが私たちが生きている今です。

運命日記を所持し、自分を犠牲にしながら呪文を唱えて他者を救う(多蕗、ゆりの視点からの)桃果は、使い古された歴史の救世主たちのメタファーなのでしょう。呪いではなく、ただひたすら祝福を授ける側の存在です。

ただし桃果のやり方、「悪」を排除するだけでは意味が無いことは私たちの歴史を振り返ればよく分かる事でしょう。
二項対立で全てが解決できるほど世界は単純ではありません。

そして救う誰かを選ぶことは同時に、誰かを選ばないことでもあります。

また桃果の救済は、桃果が世界から失われた時から、多蕗とゆりに呪いのようにも作用してしまいました。

彼女はサネトシの言葉通り常に『世界のすべては救えない』。

この世界での桃果の出番は終わり、舞台袖へ姿を消します。

しかし、サネトシはこの世界に残り続けます。彼は『輪るピングドラム』の世界の<影>を担う存在です。<影>は<悪>とイコールではなく、そこには避けようのなかった悲劇、どうしようもない現実の理不尽さ、孤独、苦悩、後悔、やるせない思いも含まれています。
<影>は誰にも滅ぼすことが出来ない。
光射す限り、人々の足元に常にあるのだから。


忘却されたブルカニロ博士は<氷の世界>でサネトシと同化しました。
サネトシは地下61階にあるそらの孔分室で、忘れ去られ続ける膨大な量の『かえるく君、○○を救う』に囲まれて、地上から聞こえる人々の助けを求める声を聞きながら(その中には沢山のザネリも家庭教師もいるでしょう)、次の電車を今も待っている。

どうして僕はここにいるんだろう
なにひとつもう動かないけど
もうすぐ君が会いに来るような気がして
僕は目を閉じるよ
(『ノルニル』ティカ・α)