僕と君の間にあるもので世界をかえることについて

アニメ『輪るピングドラム』を巡る考察的な何か

Ⅲ 輪るピングドラムの贈与論

<贈与>を<贈り物>にして考えてみましょう、プレゼントです。
あなたが誰かから<贈り物>を貰ったとします。そのお返しをしなくてはならないと考えるでしょう。
そして返すものは同等?いえ、感謝の気持ちを込めてそれ以上のものをと考えるのではないでしょうか。そうやってやり取りするうちにプラスアルファはいつしか贈り物本体以上の重さとなってしまい、手放しで喜べるステキな<贈り物>ではなくなります。
昔モースさんは『贈与論』で、<gift>はドイツ語で<贈与>と<毒>という反対の意味を持っていると指摘しました。贈り物には返礼を強制する力があり、それは時には毒、呪いとなる。


輪るピングドラム』には、カムパネルラに助けられたザネリも登場しています。
銀河鉄道の夜』にはザネリのその後は書かれていません。友人の命という重い<贈与>に、彼はどう向き合ったのでしょうか。いじめっ子の彼は改心し、他人に優しくできる人間になったのでしょうか?
…と期待してしまうのは、『カムパネルラからの尊い<贈り物>を受け取ったのだから当然そうするべきだ』と、私たちが考えてしまうから。
これが<贈与>の力であり、私たちは常にその運命から逃れることが出来ません。
そして贈与されっぱなしというのは、とても居心地が悪いもの。それは贈与を溜め込んでいることへの罰なのです。
冠葉からの愛への、陽毬の罪悪感(と呪い)は多分ここにある。 (賢治作品には、この罪について書かれたとおもわれる『貝の火』という短編があります。)


輪るピングドラム』での彼は残念な方のザネリとなっています。贈与の重みに耐え切れず、呪いであると思ってしまった方のザネリ・眞悧(サネリと読めますね)です。不思議な髪色の不思議な「彼」は、このアニメの世界の様々な<影>を一人で担っている重要なキャラクターです(多分)。
彼は自分を呪いのメタファーだと言いましたが、その一つが<贈与>の毒です。
ザネリな眞悧先生は、陽毬とマリオの命を操作します。死ぬ運命にある二人を、アンプルマークの林檎を与えることで命を救い、二人のカムパネルラ(冠葉、その双子の妹・真砂子)に代償を要求します。
冠葉がプリンセス・オブ・クリスタルに"何か"を差し出した時と異なるのは、あれらが『お金で買える』点です。

「魔術」とは、物であってはいけないものを物にすることを意味する――もっとはっきりと言えば、無償であげることだけがゆるされるものを、お金と交換に売ること(貨幣価値、つまり権力)
(『だれでもない庭』/ミヒャエル・エンデ)

彼は『白雪姫』の魔女、イリュージョニスト。真砂子風に言えばフーディーニ。いくらでも偽薬の偽林檎を生み出せたのではないでしょうか。そうして彼は<贈与>の呪いを利用しました。(寺山修司の『不思議図書館』の手品師フーディーニ・魔術師と犯罪者の話も併せて考えると面白いです ※考察メモ予定)


逆に、なにもくっついてない単純にステキな<贈り物>のことを<純粋贈与>といいます。
晶馬は最終話直前まで、冠葉から<贈与>を受け取ったこと忘れていました。
彼らの世界には記憶を操作するための道具が存在し、ここで撃たれたのは思い出し弾でしょう。冠葉は「ずっとこうしてやりたかった」と言いながら晶馬を抱きしめ、ピストルの引き金を引きます。冠葉と林檎を分け合ったことを思い出して欲しかったのではないでしょうか。
忘れられる、というのは悲しいことです。
真砂子は執拗に冠葉につきまといます。彼女はもう一人の彼であり、彼の孤独を理解していたから。
しかし本当の妹の愛の告白も制止も聞かず、兄は独りで行ってしまいます。


純粋な贈与には忘却が必要であるという考え方があって、<贈与>する側もされる側も、やりとりしたことを忘れてないとダメだといいます。片方が覚えていても辛いことになるし、残念な方のザネリにもなってしまう。
晶馬が冠葉と林檎を分け合ったことを忘れてしまったこと、冠葉が真砂子とマリオを忘れたことも、<贈与>の呪いの輪から逃れるための、忘却という戦略だったのでしょう。
しかし、忘れる/忘れられるというのはすごく悲しいし、怖いことです。私たちは<贈り物>を介して人と絆を深めます。具体的な物体ではなく、愛情などの心のやりとりもです。
それにそもそも都合よく忘れろといわれても(私たちの世界では)無理です。純粋な贈与を贈り合うって実際にはむずかしい。

そこを宮沢賢治は考えました(多分)。それが『蠍の火』の挿話に現れています。


蠍(サソリ)は「まことのみんなの幸のために」自分の体を使ってくださいと神に祈り、夜空を照らす赤い火となりました。これを<自己犠牲>を推奨する話だと考えるのは、ちょ〜っと待って頂きたい!
元々蠍はパルドラの野原の生態系の一部でした。自分は小さな虫を殺して食べて生きていたわけです。そうして今度は自分がイタチに食べられる番となった。しかし蠍は逃げ出しウッカリ井戸に落ちてしまいます。そして溺れながら自分の行いを悔いました。


どうして巡る生命の<輪>から一人で逃れようとしてしまったのかと。


賢治はこの挿話で<自己犠牲>を賛美したのではありません。私たちは誰でも元々<輪>の中の一員であり、受け取り、受け渡してゆくことで繋がっているという考えが最も重要なのです。それは嬉しい贈り物だけではなく、辛い物、悲しい物も含めてです。私たちが誰かの犠牲の上に生きている事実。忘れるのではなく、分かち合う。賢治はこれを宇宙全体まで広げて考えてゆきます。

みんなむかしからのきやうだいなのだから
けっしてひとりをいのってはいけない
(『春と修羅』青森挽歌/宮沢賢治)

赤く燃えるアンタレス、サソリの心臓。蠍が、何故夜空に輝くことになったのか。
それは罰のために燃え続けてるのではありません。蠍の祈り「まことのみんなの幸のために」を、私たちがいつでも思い出せるように神様は彼を燃やし空に掲げたのです。彼の願いを受け継いで私たちが生きていくことが「まことのみんなの幸」へ繋がるから。たとえ星が消えても、私たちが語り続ける限り火は燃え続けます。

『みんな、昔から兄弟なのだから、決してひとりを祈ってはいけない。』この「ひとりをいのってはいけない」は、

  • 一人だけの幸せを祈ってはいけない
  • 孤独を望んではいけない

ということも含めて賢治は言ったのだと、私は考えています。一人でも欠けたら輪は完成しない。これがピングドラムの1つめの鍵『分け合うこと』です


銀河鉄道に途中で乗車してきた家庭教師、教え子の少女(12歳ほど)、彼女の弟(6歳ほど)は、氷山にぶつかって沈没した船(タイタニック号がモデル)からやってきました。
家庭教師の青年は二人を逃がすため救命ボートへ向かいますが、他のたくさんの子ども達や必死な親の姿を見ると彼らを押しのける勇気が持てません。このまま神様の元へ行く方が幸せかもしれない。しかし今は私が親代わりなのだから他の人を押しのけて二人を助けなければならないのではないか、その<罪>は自分ひとりが背負おう。などと迷っているうちに船は沈み、彼は覚悟をきめて二人を抱き、冷たい氷の海へ落ちていきます。

 『輪るピングドラム』ではこの3人が眞悧と、陽毬、マリオとなっているのかもしれません。名前がマリで繋がっている3人です。銀河鉄道の家庭教師は、少年と少女の命を握る人物…主治医・眞悧先生なのではないでしょうか。何故まるで姉弟のような印象の陽毬とマリオがペンギン帽子をかぶる役目に選ばれたのか。この辺りのヒントになるのかも?と考えています。
 沈没船から氷の海へ落ちるイメージは、真砂子が冠葉に言っていた『貴方はいま氷山の端っこに立っている。これ以上踏み込んだら海に落ちるだけよ』という言葉へ繋がります。更に川におちたザネリやカムパネルラとも繋がってゆくでしょう。
 また、ザネリと関連すると思われる眞悧は、漢字を分解すると「ヒマリ」とも読めます。陽のあたる場所にいる陽毬はもう一人のザネリ、もうひとりの眞悧なのです(多分)。

家庭教師の青年は教え子たちと天上へ向かいました。しかし二人を救えなかったという彼の罪の意識、彼の半身は氷の海に沈んだままなのかもしれません。
それは冠葉の孤独でもあります。
ひとりで抱え込むこと。それが彼を<氷の世界>へと導いてゆくのです
 
 
 

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