僕と君の間にあるもので世界をかえることについて

アニメ『輪るピングドラム』を巡る考察的な何か(突貫工事のち10年放置)

Ⅱ 自己犠牲のヤな感じ―カムパネルラの限界

アニメのモチーフとなった『銀河鉄道の夜』を書いた宮沢賢治は、ある信念のために生きて死んだ人でした。それは

世界ぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
(農民芸術概論/宮沢賢治

ということです。普通に考えれば絶対無理だろー!って。
でも賢治は心からその実現を信じ、病身を押して、死ぬ直前まで他者のために行動し続けました。彼は熱心な浄土真宗の家庭で育ち、また自身は法華経の教えに感銘を受け、熱心な日蓮宗信者(国柱会)となりました。彼の多くの物語は"彼の信仰"を伝えるために書かれたのです。生前〜死後もなかなか彼が評価されなかったのは、この点からだとも言われています。銀河鉄道の夜』も例外ではありません。

ただ、この小説が他と異なるのは、彼が最期まで推敲し続け、そして書き終えられなかった物語だということです。
(私たちがよく知るカムパネルラとジョバンニの物語は、賢治の"最新の原稿"を組み立てたものであり完成した作品ではありません)


ところで良く知られているように賢治は、それはもう重度のシスコンでした。妹・トシへの気持ちが妹萌えだったのか家族愛か、または別の形の愛だったのか、もう誰にも分かりません。
確かなのは彼にとってトシは一番自分を理解してくれる、かけがえのない存在だったということ。しかし賢治はその最愛の人を病で失います。

どうしてトシは、
自分を置いて死んでしまったのか。
どうして死んだのは自分ではないのか。
残された自分はどうしたらいいのか。

彼は苦悩した末に一つの思想に辿り着きます。
それが「世界ぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」でした。

《みんなむかしからのきやうだいなのだから けっしてひとりをいのってはいけない》
ああ わたくしはけっしてさうしませんでした
あいつがなくなってからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかったとおもひます
(『春と修羅』青森挽歌/宮沢賢治

『青森挽歌』は彼が最愛の人の死後、青森へ汽車で旅をする中で考えたことを詩の形にまとめたものです。彼はその汽車が林檎の中を走っているという空想を膨らませます。(挽歌:葬送の時の歌、悲しみの歌のこと)

あいつとはもちろんトシ。賢治は一度も「トシだけが良いところへ行けばいい」とは祈らなかったと、そう祈ってはダメだというのです。最愛の人がなんだからチョットくらい良いじゃないかと思いますが、ダメなものはダメなのです。絶対ダメなのです。それが賢治です。
法華経への信仰と、妹の喪失、汽車の旅、その悲しみの先へ。
この体験が『銀河鉄道の夜』になりました。
なお、カムパネルラのモデルはトシの他、学生時代からの友人説などもあります

宮沢賢治は<自己犠牲>の作家というのが一般的な印象かと思います。確かに著作には、他者のため死んで行く者の話が多い。そのイメージから彼を苦手だと感じる人も多いと思います。しかし賢治が書いたのは、自分の命を捨ててでも他人を助けろ!という話ではなかったかもしれないのです。

ここからは一旦<自己犠牲>という言葉を忘れて、代わりに<贈与>という言葉を使うことにしましょう。もっと簡単にいうと<贈り物>です。


輪るピングドラム』でのカムパネルラである冠葉は、陽毬を捨て身で救おうとします。アニメ後半、彼は本当の双子の妹・真砂子や弟のマリオ、最終話では他人だった晶馬すら自分を顧みずに助けた過去が明かされました。たった一人で多くを救った冠葉。

しかし冠葉の方法は行き詰ります。何よりも大切な陽毬への必死の想いは届かず、彼女はやがて冠葉の<贈与>を受け入れようとしなくなります。彼女の命の代償として帽子様に差し出したモノは電池切れ。
それでも陽毬を助けたいと願う彼は、謎の男・渡瀬眞悧にそそのかされ、親が深く関わっていたピングフォースの残党・KIGAのテロ計画に加担することになるのです。もう後戻りできないところまで。

『私が見て見ぬふりをして、冠ちゃんから奪ったものを冠ちゃんに返してあげてください。どうか、冠ちゃんを助けてあげて』そう祈り、陽毬は冠葉を止めるために再び倒れてしまいます。
本当に救いたい人に、こんな思いをさせてしまった冠葉の<贈与>は、さて良いものだったのか、悪いものだったのか。


一方的な<贈与>は同情、憐れみです。関係は対等ではありません。冠葉は兄と妹として(?)見返りを求めない無償の<贈与>を与えていたつもりだったでしょう。
しかし生きることに退屈し諦めていた陽毬にとって、自らを磨り減らしてでも差し出される冠葉からのそれは、もう見ぬふりすることも出来ないほど、逆に罪の意識を感じるほどの重さになっていました。
ここに、自己を犠牲にしてプリンセス・オブ・クリスタルに差し出した<代償>が電池切れとなってしまった理由があるのではないかと思います。


宮沢賢治はカムパネルラが、ザネリを助けた結果自分の命を失ったことに対して葛藤する様子を書いています。

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」
「ぼくはおっかさんが、ほんとうの幸になるなら、どんなことでもする。
 けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」

カムパネルラは結局、ほんとうの幸いが何なのかわからないと言い残して、どこまでも一緒に行こうと、たったさっき言いあったばかりのジョバンニの前から姿を消します。

賢治は『銀河鉄道の夜』で自己犠牲のススメを書いたわけではなく、それへの迷いと葛藤と解決のアイデアを、病床で最期まで考え推敲し続けていたのではないか、と私は思っています。



冠葉はアニメ最終回の終盤まで、自分を他者のために犠牲にしつづけながら「自らは受け取る資格がない」と思い込んでいました。
絆創膏に象徴される陽毬に与えてもらったもののおかえしとして、まだ何も与えていないのだと言います。

<自己犠牲>、そこに潜むなんとなくヤな感じ。その正体は何なのでしょうか。