Ⅰ HOMEのかたち ―ディストピアとユートピア
『輪るピングドラム』には様々な親と子の形、家庭が描かれますが、いわゆる"一般的に理想"だと思われる姿はありません。
高倉家は穏やかで優しく芯の強い、我が子たちを愛する両親が三兄妹と温かな日々をおくっている風に見えましたが、両親は多くの人々を理想のために殺した犯罪者であり、子ども達を置き去りにし消えてしまいます。
荻野目家では、死んだ桃果を巡る夫婦のすれ違いの中で幼い苹果は傷つき自分を見失い、その事に両親は気づかないままでいます。
夏芽家、多蕗家、時籠家では、子どもは「保護者」の所有物であり徹底して管理下に置かれ、搾取されます。
幼い陽毬は育児放棄されていました。
『輪るピングドラム』の世界では、愛を手に出来なかった子どもは「こどもブロイラー」に移されます。彼らを救う場所ではなく処分するところです。
家族に見捨てられ、しかし社会にも彼らに愛を与える場所はない。時々晶馬や桃果のように助けに来てくれる人もいるようですが、多くは誰からも救い出されず、ベルトコンベアーで運ばれて砕かれ、透明な存在になっていきます。
(透明な存在とは、1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の犯人である中学生の少年が犯行声明文に書いた言葉からでしょう。
彼は「僕がわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続ける僕を、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造りだした義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐もわすれてはいない」等と動機を語っています。)
23〜24話、幼い頃の冠葉と晶馬は小さな檻の中にいます。これは一般的な社会の中の家庭というコミュニティではなく、社会から距離をおいた場所、反社会的な組織内で起きたことだったからではないでしょうか。
そのときの彼らには他に行き場もなく、自分だけの箱が最期の場所だったのでしょう。
ペンギンで埋め尽くされたあの世界では、このように家庭と社会がディストピアとして描かれています。(ディストピアはギリシャ語で阻害された場所。極端な管理社会、人権を抑圧する社会、簡単に言うと自由のない場所のことです。)
『輪るピングドラム』の子ども達は愛に傷つき、愛を失い、愛を求めて奔走します。
多蕗は言います。
僕らは予め失われた子供だった。
でもみんな、それは世界中のほとんどの子供が同じ。
そうした世界で生きのびるために子ども達が自らの小さな手で必死に作り出した彼らの居場所、ユートピア、それがミカちゃんハウスに住む血の繋がらない高倉三兄妹、深海に沈む竜宮城のような部屋に暮らすカッパとラッコと苹果、失われた桃果への執着で繋がる多蕗とゆりという夫婦というコミュニティなのです。
『輪るピングドラム』で描かれている<こども>は、力を持たない存在のメタファー…理不尽な社会の仕組み、時代、旧世代の価値観…そういったものに磨り潰されそうになっている<若者>を喩えているのでしょう。
<大人>は<こども>を救いはしません。
『輪るピングドラム』は、子どもたちが理不尽で残酷なこの世界をサバイバルするための、生存戦略の物語です。
生存のための競争である以上、そこには敗者が存在します。
世界から見放され透明な存在となった子どもたちの冷たい破片は、降り積もって<氷の世界>――南極、ピングフォース、KIGAの会の領域になります。