僕と君の間にあるもので世界をかえることについて

アニメ『輪るピングドラム』を巡る考察的な何か

Ⅲ 世界の果てまで連れてって

寺山修司の幸福論について。まとめ中

世界の果て。

イクニ監督が行き詰まった時、限界、絶望のことをそう呼ぶのだそうです。これ言葉は寺山修司の言う<世界の涯>と同じものと考えていいと思います。
(涯:「はて」、水際・岸といった語源から転じて「果て・限り」の意)
寺山は「世界の涯」を「壁」とも言い換えていました。そして自分の舞台作品についてのインタビューの中で、「人間っていうふうなものを規定している単位っていうものが壁」と語っています。

イクニ監督は、更に閉じたイメージを強調する「卵(少女革命ウテナ)」や「箱」という言葉に置き換えます。

そう、『輪るピングドラム』で渡瀬眞悧が言う「世界はいくつもの箱」です。
あれは彼の絶望の叫びでした。

ある朝気が付いたんだ、僕はこの世界が嫌いなんだって。世界はいくつもの箱だよ。
人は体を折り曲げて自分の箱に入るんだ。ずっと一生、そのままに。
やがて箱の中で忘れちゃうんだ。
自分が、どんな形をしていたのか、何が好きだったのか、誰を好きだったのか。
だからさ、僕は箱から出るんだ。僕は選ばれし者。
だからさ、僕はこれから、この世界を壊すんだ。


※まとめ中

「現実を直視しろ」という時の現実とは、たいてい辛いこと、悲劇、不幸等を意味すると思います。でも「現実」って、そういった目をそむけたい事だけでできているのでしょうか。眞悧は言います。

僕に見える風景は僕以外の誰にも見えない。
僕が聞こえる音は僕以外の誰にも聞こえない。
でも、世界中の人の声が聞こえていたんだ。
世界中の助けてって声が聞こえていたんだ。本当だよ。
だから、世界の進むべき方向も僕には見えていたんだ。嘘じゃないって。

ここで彼は、彼の真実を語ります。しかしまた、こうも言います。

人間の世界では、真実は必ずしも本当のことじゃあない。
人間は真実が口実になれば、人だって殺せるんだ

『自分と同じものを見聞きした人がいても、同じ感じ方をするとは限らない』は本当です。沢山の人が同じ『輪るピングドラム』をみても、感じ方はそれぞれだったように。

人間が考える<真実あるいは現実>といったものは、常にそれぞれの身体機能を通して得た情報を、各々の脳が、それぞれの都合の良い方向へ編集あるいは改変したものです。また、ヒトの脳は自動的に二項対立で判断しようとする作りなのです。そして「あちら側」をシャットアウトすることで、心の平安を保とうとする。

眞悧は世界中の悲しみの声を聞いたと言いました。でも、世界には喜びの声もあるはずです。彼は<世界への復讐>を肯定するための、心地の良い悲しみの声しか聞いていなかったのではないでしょうか。

人間っていうのは不自由な生き物だね。
だって、自分という箱から一生出られないからね。
その箱は僕たちを守ってくれるわけじゃない。
僕たちから大切なものを奪っていくんだ。
たとえ隣に誰かいても、壁を越えてつながることも出来ない。
僕らはみんな一人ぼっちなのさ。
その箱の中で、僕たちが何かを得ることは絶対に無いだろう。
出口なんてどこにもない。誰も救えやしない。
だから壊すしかないんだ。箱を、人を、世界を!

そうやって彼は「地下鉄爆破テロ」と言う形で<一線>を越えます。イクニ監督の言葉をお借りすると「髪の毛一本分の差」、そして<一線>もまた<壁>です。

※まとめ中

 
寺山修司の戯曲『レミング―世界の涯まで連れてって』(のちに副題を『壁抜け男』に改題)は、アパート自室と隣室の壁をはじめ、自分と他人、虚構と現実、ありとあらゆる壁を抜けてしまう男の話。生と死の境界すら越えてしまう渡瀬眞悧は、この壁抜け男です。

※まとめ中


眞悧は「僕は一人ぼっちだ」と絶望しています。
一方、最終話で陽毬は「いつだって一人じゃない」と言います。
陽毬は運命を乗り換え、眞悧は乗り損ねます。
陰のザネリと、陽のザネリ。

私たちが「未来」へ向かっていくために必要なのはどちらの考えなのか?監督はそれを伝えたかったのではないかとおもいます。

一番最後でもいいからさ
世界の涯てまで連れてって

 
『Come down Moses』寺山修司 
※舞台『レミング』のための歌ですが、初めて通して歌われた舞台は寺山の葬儀でした。